いつもと違って運転するのは、お母さん。助手席には、お父さんがすわっている。そして突然、大きな声を上げた。
「あ、保険証忘れた!」
「入れておきましたよ、小さいバックのなか」
お母さんは余裕で答える。
まだ裸のイチョウ並木を通って、高速道路をくぐると、左側に僕の学校が見えてくる。
「四月には、もう六年生だな」
「うん」
お父さんは考えごとをしているみたいに、学校を見ていた。
「……小学生のときに、お父さんイジメられていて、半年くらい学校に行けなくなったことがあったんだ。だから裕明には強くなってもらいたかった。でも、必要なかったのかもしれない。だって裕明には、たくさんの友達がいるもんな」
お父さんがいい終わるころ、もう学校は見えなくなっていた。
駅に着くと、新幹線の改札口まで三人で歩いた。
まだ時間があったので、お父さんは飲み物や雑誌を売店まで買いにいった。改札口の向こうは、どこか遠くの世界と確実につながっているという気配がある。
「栄養かたよらないようにね」
お母さんが電車で食べるみかんを渡した。
「あっちに着いたら電話してね、遅くなっても起きてるから」
僕は元気にいった。
「じゃあ、行ってくるよ」お父さんは優しく笑った。「裕明、お母さんの力になってあげるんだよ。頼んだぞ」
「うん」
遠くの世界と確実につながっている改札口の向こうへ、お父さんは手をふりながら歩いていった。
駅から帰る車の中で、学校を通り過ぎるとき、お母さんはいった。
「そういえば貴広くん、新聞配達してるんだって。笹岡先生にプレゼントするお金を貯めるためだって。えらいよねー。新聞屋さん、いってたよ」
春休みになってから、貴広とは会っていなかった。
「裕明もプレゼントするって、お小遣い貯めてたよね」
「うん、もうプレゼントを買う役の人に渡したよ。明日だからね、先生の家行くの」
「そっか。よかった、よかった。お父さん、どこ走ってるかなー」
駅をでてからまだ十分もたってないのに、お母さんは窓のそとを見ながらいった。
お父さんの電話を待っていたから、いつもより寝るのが遅くなってしまったのに、なぜかとても早くに目が覚めた。窓のそとは、すこし明るくなり始めたところだ。約束の時間にはまだ何時間もありそうだけど、もう眠りたくなかった。体の底から、力がわいてくるみたいだった。
僕は着替えて、そとにでた。
お父さんと走っていたときに使ってた靴は、すこしだけ小さく感じた。朝はまだ寒くて、すぐに足踏みを始めた。
学校に行くのとは反対の道を走り出した。お父さんと走った、いつものコースだ。
すぐにはじまる坂道を、走ってゆく。カーブのつづく道にそった木や生えてきたばかりの雑草が、応援しているみたいに風にゆれた。毎日走ってた道なのに、ちがう道のように思えた。いつも眠いまま坂道がはじまるので、走りながら下を向いていたんだと気づいた。
息も切れずに上りきると、坂の向こうに太陽が昇ってきていた。
坂のしたに広がる田んぼや畑を、光の色で照らしている。
「やー!」
思わず、声を上げた。
目の前には、小さな虫が飛んでいる。こんなに何匹も。冬の終わりを待っていた命が、飛びだしてきているんだ。
僕は下り坂を、ジャンプした。
これから何度もなんども大変なことが起こるんだ。
もう一度、ジャンプした。
でもこんな気持ちでいれば、のりこえられる。そう思った。
三度目は、最高のジャンプで飛び上がった。
そして片手をつき上げて、僕は無敵の声をはり上げた。
おわり