息子よ


 それだけだ。
雑踏に掠れる町のはずれで、子供をつれた母親が道を譲ってくれた。それだけのことだ。人の好意がまさか自分に向けられる、何十年も忘れていたこの感じが沁みた。その笑顔に眩んだ。ただ怖気づいた俺のぶっきら棒な態度のせいで、母親は逃げるように子供の手を引いて行っちまった。
 路地にぽつんと照らされた自販機のまえで、手の平の小銭を数える。機械油が皺の溝に沁みこんだ手に、煙草に足りる銭がころがる。
「月がきれいや」
ひと気ない安堵とともに吐いた独り言は、アパートの味気ない鉄階段の音と縺れあいながら消えていく。
 安っぽい音を立てて扉が閉まると、窓からの青白い月明かりが先客だといわんばかりの有りようで射していた。
俺は卓袱台を月光の落ちる場所へと移し、部屋の明かりはつけずに焼酎をついだ。鰯の缶詰をつまみにひとくち酒をやると、いつになく浮ついた自分に気がついた。
 箸の鰯に映える上等な光のせいか、近づくことすら恐れていた遠い記憶の蓋を容易く開けてしまいそうな気分だ。
 やがてちびり酒がすすむと、浮ついた陽気さも手伝って、俺はそっと目蓋を下ろした。

 ――河川敷の野球場で、夕日を浴びながらキャッチボールをするのが日課だった。ボールも見えないほどに日が落ちれば、グローブを持った息子と帰路につく。闇に沈んだ道すがら、見上げて笑った健太の顔を、満月の青い月明かりが映していた。

 記憶が蘇るや、酸欠だった全身の細胞が慌てて呼吸を始めやがったのか、もうどうにも立ち上がり、俺は投球動作をくり返す。何とも不恰好なのは酒のせいか、はたまた月日のせいか。
満足顔で腰を下ろして酒をやる心地よさもつかの間、幸福感から引き離す強烈な引力が働いた。記憶の蓋をあけた当然の連鎖として、あの日々に投げ込まれたのだ。

――「能無し!」。吐き捨てるような女房の言葉に、俺は背を向けた。救いない世界に立ち向かうような気迫で、女房は息子の手を引き、玄関の引き戸を激しく閉めて家を出て行った。

職を無くしてから一年も耐えた女房と息子、最後にしてやれることは引き止めないことだけだったのか。こうなると過去のあらゆる場面を思い出し、あの時こうしていれば、もっと頑張れただろうと芋ずる式の無念が自己嫌悪となって身を切り刻む。そして、あの日々の記憶から逃げるようにまた酒をやる。毎度まいどのこった。

仕事が遅番でも早くに目が覚めてしまうのはいつものことで、朝めし食ってテレビを眺めているとまたうっつら眠くなる。
どれほど過ぎたのか、耳障りな通販番組の音を遮るように電話がなった。寝起きの虚ろさで受話器をにぎる。俺の返事を聞き終わるかどうかで慌しい声がした。
「おやじか! おれおれ、おれだよ」
 一瞬にして脳が白茶けた。それは真空の瞬間だった。
「おれだよ、おれ」
「……健太、なのか」
 ばかみたいに落ち着いた声がでた。
「ああ、そうだよ」
 思いもよらぬ不意の奇跡は、歓喜はでなく、凄烈な後ろめたさでしかなかった。俺の間抜けな躊躇いなんて構いなしの勢いで、健太が捲し立てた。
「おやじ、悪(わ)りい。おれ今この町で働いててさ、とんでもない事やらかしちまった」
「この町で……、そうだったのか」
「いま不動産やで働いてんだけど、おれのミスで商談壊してさ、会社と客にかなりの損害与えちまった。うちの社長には何とか謝るんだけど、お客に少なくても二、三百万は慰謝料払わなくちゃならなくて」
 健太は俺に頼っているのだろうか。
「なんとかならないかな」
 だとしたら、俺は。
「ああ、大丈夫だ。大丈夫だよ」
「悪(わ)りい、助かるよ。いまから後輩を向かわせるけど、金用意するのにどれくらいかかるかな」

 電話を切ってすぐに、靴下をつっかけた。片足でふらつきながら、こんなもの履いている場合ではないと、靴下を放り投げて部屋をでた。

 金をおろして銀行をでてからも走った。
 息子が、自分を頼りに電話をくれたのだ。
走りながら切る風が、生きることの豊かさで包み込むような。

 息もあがったまま部屋で待つ俺は、大人になった健太の姿を想像せずにはいられなかった。それと同時に何と声をかければいいのか、分からなかった。
日が暮れかかるころ、ノックの音とともに社名を名乗る声がした。俺の呼びかけで扉が開くと、スーツ姿の凛々しい男が、健太が立っていた。
「け、健太。ひさしぶりやな。後輩をよこすといっとったが、おまえが来てくれるとは。まあええ、上がれ」
俺の言葉は上ずって早口だった。面影を留める大人の男となった健太が、俺を見開いた目でみていた。その時間、どれほど長く感じたろう。
「……おやじ、じゃねえか……」
項垂れた健太は、震える言葉を絞りだした。
「相変わらず、馬鹿だな……」
 俺はどんな責めも受けると決めていた。
 そのとき突然、脱力の態で健太の膝が崩れた。
「おかげで……、おれもこんな馬鹿になっちまった……」
「健太、……許してくれ」
俺のやっとの声が、聞こえたかどうか分からない。
膝をついたままの健太に、そっと差し出した。剥きだしのままの324万円を。
「足りるか」
息子の助けになれる。それだけが喜びだった。
 受け取ろうとしない健太のまえに、静かに置いた。
「これっぽっちですまんな」
 俺の言葉は存在しなかったのか、金をそのまま健太は顔を上げた。
「すまない、おやじ。なんとかするから大丈夫だ」
いいながら健太は、潤ませた目で笑った。
「謝るのは俺だろ、許してくれ……」
 俺の言葉なんて、健太の傷のこれっぽっちも癒せないだろう。いつか息子のためにと貯めておいた金ですら、役に立てないのだ。なのに健太は、あの頃の、キャッチボールの帰りのような顔して俺を見ている。
 部屋をあとに、駆けてゆく健太を光が包んでいた。
あの日の夕暮れと、同じ光のように思えた。

 

 

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