七月に入っても梅雨空はつづき、後半になるほど強い雨が降るようになった。この雨と同じように、タツヤがするノブオへの虐めも、激しくなっていった。校庭で見つけるとボールを当てたり、歩いているノブオを後ろから蹴ったり、ホースからの水をかけて服を台無しにする。
タツヤの虐めが激しくなるにつれて、同調してやる人は少なくなっていったが、みんなタツヤのことが怖いので、誰もが関わりのない存在として見ているだけだった。
午後には雨がやんで、僕が帰るころには強い風が吹いていた。川沿いを歩いていると、土手の草木が騒がしい音を立てる。雨は落ちてこないけれど、いまにも降りだしそうな黒い雲が、空をふさいでいた。
住宅街の途切れた先には畑が広がっていて、僕はいつもより足早に、家への道を歩いた。そこへ突風が吹きつけ、思わず顔を背けたとき、畑の奥にある神社に、ノブオが歩いていく姿を見つけた。
僕は前を見て、何もなかったように先を急いだ。強い風に目を細め、足を前に出すごとに、気になる気持ちがふくらんでいく。少し立ち止まると、僕は神社に向きを変えた。まえに何度かノブオが神社に入るのを見たことがあったけど、いままでは気にしたことがなかった。
畑の境の、狭いあぜ道を歩いていく。その先に、朱色がはげた鳥居と、境内へつづく石の階段があった。その周りには数百年も生きている大きな木々が、奥にあるはずの本殿を覆い隠している。
石段は斜めに傾いていたり、石と石とがずれて溝が開いていたりしている。いまでは、この荒れた神社に来る人は、ほとんどいない。
石段を上りきると、つづく石畳の先に、古くて小さな本殿が見えた。賽銭箱には穴が開き、雨戸のような木の戸が外れて傾いている。ノブオの姿が見当たらなかった。どこにいったのだろう。風が、大きな木々を騒めかせる。ここより先に進む勇気がでない。
しばらく目を凝らして見ていると、本殿の下のほうに、ノブオの横顔が見えた。本殿を囲う縁側の、その下にいた。正面から見ると本殿の横の縁側の下にいるので、縁側を支える柱の陰に隠れて見えなかったのだ。縁側の下は、ちょうど子供が座っては入れるくらいの高さがあって、ノブオが前に屈むと、柱の影からノブオの横顔が見えた。いったい何をしているのか、まるで分からなかった。
声をかけようか、なかに入ろうかと迷っているとき、体の底から揺さぶられるような轟音が響いた。僕はとっさに身を屈めた。強い風が吹いて、大木を揺らす。もう一度、雲の中で雷が鳴った。
僕は走りだした。怖くて怖くて、石段を駆け下り、狭いあぜ道を一目散に走った。
畑が終わって住宅街を通り、店を何軒もすぎると、街灯や看板に電気がつきだした。家の近くまで来ると、さっきまでいた神社での出来事が、別の世界でのことのように感じられた。
僕の家の看板が見えてくると、前からタツヤが歩いてくるのに気づいた。手には買い物袋をさげている。僕が声をかけると、タツヤは避けるようにして行こうとした。
「あれ、顔どうしたの?」
タツヤの顔が変な風に見えた。
「なんでもねーよ」
そういって僕の横を通りすぎるとき、タツヤの顔がよく見えた。右目のまわりが紫色に腫れて、口の端も色が変わっている。
僕は驚きのあまり何も出来ずにいると、タツヤの着ていたシャツが突然、何者かにたくし上げられた。何事かと立ち止まったタツヤの上半身が、胸の辺りまであらわになっている。その上半身には、紫色のアザがいくつもあった。
「やっぱり。こんなことだろうと思った」
タツヤのシャツを両手で上げたまま、女の人はいった。真っ赤な口紅に、お化けみたいな白い化粧をしている。
「え、ルリ子さん」
タツヤがいう。知っている女性のようだった。ハイヒールに、スパンコールのついた白いタイトドレスを着たルリ子さんは、タツヤがさげていた買い物袋を、その手ごと持ち上げた。なかには、大きな焼酎のペットボトルが入っている。ルリ子さんはタツヤを見つめ、なにか思い切ったような溜息を吐いた。
「ここに置いてはおけない」
ルリ子さんは身をかがめて、タツヤと視線の高さを合わせる。
「いい、今日から私の家に泊まりなさい。私の家から学校に通えばいいから」
訳が分からないでいるタツヤに、もう一度ルリ子さんがいった。
「あんたのお母さんが心を入れかえて、あの男を追い出さないかぎり、あんたをこの家に帰す訳にはいかない」
ルリ子さんはそういうと、じっとタツヤを見ている。ルリ子さんの揺るぎない表情に、タツヤの顔がゆるみかけたけど、すぐに険しくなった。
「そんなことしたら酷い目にあう。無理だよ」
タツヤがいうと、ルリ子さんははっきりとした言葉で返す。
「あたしが上手く話してあげるから。何も心配しなくていいよ」
そういってルリ子さんは微笑んだ。そして、タツヤの顔をのぞき込む。
「いい、まず買ったものを持って戻ったら、二日分の服と下着、それに学校の道具を用意して持ち出せるようにしておいて。残りの物は、あとで様子を見計らって取りに来ればいいから。用意が出来たころに、あたしがチャイムを鳴らす。それから後はまかせて。あたしのいう通りにしていれば大丈夫」
そういって、ルリ子さんはもう一度微笑んだ。
ルリ子さんの話を聞きながら、タツヤの顔がみるみる笑顔になっていった。こんなタツヤの笑顔は、もうずっと見ていなかった。
階段を上がって、アパートの廊下を歩きながら、タツヤが不安そうにふり返る。ルリ子さんが、笑顔でゆっくりとうなずいた。それを見て、タツヤは心を決め、アパートのドアを開けた。
ルリ子さんは閉まった後のドアを、しばらく見つめていた。
「あの子のお母さんと、同じスナックで働いてるわけ」
ぽつりと、ルリ子さんはいった。僕に話してくれているようだった。
「それがさ、母親とは思えないようなことを言いだすもんだから。どうなってるんだろうと思って、来てしまったわけ。あの子には言うつもりもないけどさ。世の中には、親になっちゃいけない人間ってのがいるんだよ」
ルリ子さんは煙草をくわえて火をつけ、深く吸い込んだ。そして吐いた煙は、湿った風にのって遠くへ流れていく。
「夕方には母親が仕事にでて、帰るのは夜中すぎ。ようするに学校から帰ってくれば朝まで、知らない男と二人きりで部屋のなかさ。ようするに地獄だよね、地獄。あたしも小さいころに、同じようなことがあったから分かるってわけ」
ルリ子さんは、もう一度煙草を吸い込んだ。
「あたしは女として取り柄のない、だめ女。顔だってお化けみたいでしょ。でも、あの子のことを安心させてあげることが出来たら、あたしも生きてきて、良かったかなって、思えるのかもね」
最後に吸い込んだあと、すてた煙草をハイヒールでふんだ。
「もう遅いから、あんたも帰りなさい」
僕はうなずいて、歩きだした。ルリ子さんが、僕の背中にいった。
「タツヤと仲良くしてやってね」
僕がふり返ると、ルリ子さんは照れくさそうに笑っていた。
強い風が吹き、ごみ袋が飛んでいった。僕は家に入るまえに、タツヤのアパートを見てみた。ルリ子さんは階段を上って、廊下を歩いていくところだった。