四日目
今日は土曜日だけど、パパは仕事が半日あるといって出かけた。
私たちは少しこげたトーストとハムエッグ、それにサニーレタスのサラダを食べた。食べながらタっくんは新幹線メガネを不思議そうに見ているので、私は夜中に見た光るヒモの話をした。タっくんはただ、静かにうなずきながら聞いている。
「お姉さん、もう一度、挑戦してみます」
長机をキレイにして、タっくんはスライドガラスをゆっくりと置いた。そして深呼吸をすると、渦巻き新幹線メガネをかけた。
スライドガラスの水に、渦巻くレンズの先を、ギリギリまで近づけていく。そのまま燃え上がっちゃうんじゃないかというくらい、タっくんが集中していくのがわかった。
「すごい。どんどん近づいていくぞ。電子の表面が、こんなになっているなんて! 地球そっくりだ」
タっくんの声が、うわずっている。
「日本列島があった。ここに、お母さんがいるはずだ!」
タっくんは両手で、しっかりとメガネを押さえて、集中している。
「メガネの性能がすごい! お姉さん、僕たちの町が見えてきました」
「タっくん、ママをさがして!」
私はメガネのはじからのぞき見ようとしたけど、見えなかった。
「はいっ。うわー、でも広すぎて、見つけるのが大変だぞ」
「あ、待ってて、タっくん」
ママの携帯電話の番号が書かれた紙を、私は急いで取りにいった。そして電話番号を押しながら、机のほうに向かった。
呼び出し音が鳴るけど、なかなか出ない。ママ、はやく出て。九回目の呼び出し音のあとに、やっとつながった。
私が声をかけるより先に、ママの声がした。
「はあー、はー、助けて!」
「え、ママ! どうしたの?」
「はあー、はー、モエちゃんなのね。ママいま、警察とか、いろいろな人に追いかけられてるのよ、きゃー、こないでー!」
「ママ、どこにいるの? 教えて!」
「いま町役場の前の、はあー、はー、八百屋さんをすぎて、クリーニング屋さんのほうへ走っていく、はー、ところよ」
私はすぐ、タっくんに伝えた。
「いたっ、いました。大変だ、沢山の人に追いかけられてる!」
「タっくん、逃げ道があったら教えて!」
「そっちに走っていったらダメ、警察が待っています! クリーニング屋さんを左に曲がって!」
私は受話器からママに伝えた。
「突き当りまで行くと、何人も待ちかまえています。その先の焼き鳥屋さんを右に曲がってください! 道が細いけど、そこを抜けて!」
すぐママにいった。
「曲がったけど、この道のさき、体を横にしないと通れないみたい」
「ママ、がんばって!」
「もう少しです! お母さん!」
タっくんが叫んだ。
ママの荒い息づかいだけが聞こえてくる。
「みんな見失ったようで、追いかけてきていません。もう大丈夫。お母さん、その先の工場に行ってください。使われていない工場です」
「あー、よかった。ママ、もう大丈夫だって。先にある工場に入って」
「はあー、はー、ありがとう」
「あ、お母さん。屋根があると、こちらから見えなくなってしまいます。右手に見える塀のなかに入れますか?」
私が伝えると、ママは息を切りながら返事をした。
「はあー、はー、よかった。ここなら安心できる」
ママが塀のなかに入れたみたいで、にぎりしめていた受話器をもつ手から、力が抜けていった。
「ママ、タっくんが空の上から見ているんだよ」
「えー、そうなの。だから道を教えてくれたのね。タっくーん、見えてるー、ありがとう」
タっくんは観察しながら、小さく手をふった。天才モードでも、可愛いとこあるね。
さてさて。えー、さて。ここからママは、どうやって帰ればいいのでしょうか? 天才のタっくんに聞いてみました。
「うわー、そうかー。僕は何とか、お母さんを見つける事だけしか考えていなくて、どうやって帰ってくればいいのかなんて分からない。お母さんをつまみ上げられたとしても、見えないくらい小さいわけだし。そもそも世界で一番小さな粒より、もっとずっと小さなお母さんが、この世に存在できるのだろうか、んー……」
私はいってる意味の半分も分からなかったけど、天才モードのタっくんでも、どうしようもないのだということは分かった。
「ママ、どうして、そっちに行っちゃったの?」
「いつ来てしまったのか分からない。落ちていく感じがしたあと、気がついたら家を出ていて。そのうち、まわりの人がヘンだなって気づいた。細かいことガミガミいうし、いつもケンカしているみたいにしゃべってきて、誰ひとり夜も寝ないのよ」
「ママは細かい事ばかりいってるから、そういう人たちのいる世界に行ってしまったんだって、パパがいってた」
「そうかもしれないね……」
電話のむこうで、ママは泣いていた。
ママのいる世界を想った。世界で一番小さな粒の、その上にいるママ。
私は夢で見たことを考えていた。電子の地球の下につづく鍵盤には、恐ろしくて行けなかった。ママはどうして、一オクターブ下の世界に、落ちてしまったのだろう。私たちの住む世界ではないのに。
「ケンカをしても忘れることだって、おばあちゃんがいってた」
ママは泣きながら、だまって聞いていた。
「おじいちゃんとケンカしても、ご飯になったら、いつもの声を出すんだって。そうすると、おじいちゃんも普通の声で答えて、それで終わりだって」
私はつづけた。
「ママが元気なのは一生けんめい生きているからだって。私とタっくんを守ろうとして一生けんめい。そんな時はパパのことを許せないと思うこともあるさって、おばあちゃんいってたよ。でも大丈夫だって。ただじっと待ってれば、どこからか許せる気持ちがやってくるんだって」
ママはもう、すすり泣いていなかった。
「モエちゃん、ありがとう。ママね、パパのことを許せなくて許せなくて、怒り狂っていたんだよ。だから、こんな世界に落ちてしまったんだと思う。でもこの世界は、ママの世界じゃない。道は一直線に歩くことしか許されなくて、時間は早くても遅くても一秒でもズレたら怒鳴られて、やることをずっと監視されて小言をいわれつづける。パパが愛おしいよ。なにもいわずに、いつでも許してくれて。あんないいパパ、いないのにね。もー、ぐうたらっサイコー!」
ママが歌うみたいに叫んだ声を聞いて、うれしかった。
そのとき突然、タっくんが声を上げた。
「うわうわ、うわーー」
スライドガラスから、ぶくぶくとママがわいてきた。「サイコー!」って手をつき上げたままの姿で、現れた。
そのまま長机の上に立ってるから、私は笑った。
タっくんも指をさして、ママの姿を笑っていた。
ママも照れたみたいに、私たちを交互に指さして、
「はは、ははっ、帰れたーー。お家、サイコー!」
っていって、ばかみたいに笑った。