用意したのはマンガとスマホの予備バッテリー、タオルと水筒とヌンチャク、それに読みかけの「無理せず腹筋を十個つくる方法」。
持久戦への準備を適当に整え、八郎太は原チャリを一度吹かしてから田沼宅にとめた。車庫には昨日の帰りに見た二台の車のうち、一台だけが停まっている。二台とも国産セダンだったので、誠司の両親どちらが家にいるのか車からでは分からない。平日の朝八時。八郎太はインターフォンを押した。それとほぼ同時に玄関のドアが突然開いた。
誠司の母だった。タイトなグレーのスカートスーツで、八郎太が挨拶する間もなく、朝と昼の食事が用意してあること、飲み物とコップの場所、それにリビングとキッチンとトイレに誠司の部屋へ続く階段以外のところへは行かないこと。これらを順序良く八郎太に伝え、リズムを少しも変えることなく、誠司の母は車に乗り込んだ。清潔な、大人の女性の匂いがした。
「おじゃましまーす」
八郎太は両親の出かけた家に上がり、そのまま階段を上がった。誠司の部屋の前でとまると、体を落として胡坐をかいた。
「誠司、わしや。お前に頼みがある。気が向いたら出てこいや。面と向かわな話せんことがあるからな」
それだけ言い、長期戦を覚悟の八郎太は、すぐに一階へ下りた。
強い日差しの外からは、蝉の鳴き声が聞こえる。用意してもらった朝食のサンドイッチを食べ、ソファに寝転がって雑誌を見る。思った以上に暇で、昼前には腹を減らそうと、ヌンチャクとゴールデンプレミアム腹筋法で汗をかいた。誠司の母がエアコンをつけてくれてあったので快適な室温だが、八郎太はリモコンを持ってエアコンの下にいき、風向を自分にむけて連打で設定温度を下げた。
信じられないほどの冷風が、火照った身体の熱を取り去ってくれる。エドワード・エアコンだったか誰だか、エアコンを発明した人は知らないが、エアコンという機械は人類文明の一つの勝利だ。八郎太は確信した。
午後四時をまわったころ、八郎太は自分が食べた昼食分の食器を洗いに立った。外からは工事の音の合間に、蝉の声が聞こえてくる。キッチンのテーブルには一食の食事が残されたままだ。ここに食事があるということは、誠司はキッチンまできて食べるのが日常なのだろう。誠司の母の話では、誠司はいつでも昼間に一食だけ食べるきりだという。「おれがいるから意地張って来ないんだよな」、誰にともなく口をついた。
懐柔策という訳ではないが、八郎太は食事を部屋の前まで持っていくことにした。武士の情けだ。トレイにのったままの食事を手に、大げさな音を立てて階段を登ってゆく。階段の途中で、別の考えが過ぎった。普段は親のいないうちに、誠司はメシを食うということか。八郎太はにんまりして、階段を引き返した。
夕方には誠司の母が帰ってきた。少し心配だったのか、昨日より帰宅が早い。キッチンに残った一食分の食事を見て、誠司の母は小さく溜息をついたように思えた。八郎太は昼間の報告と少しばかりの世間話をして、この日は田沼家を去った。
八郎太は昨日と同じ時間に到着したので、インターホンを押したらまた同時に玄関のドアが開くんじゃないかと思った。誠司の母の何事も正確な感じを思いだしつつ、八郎太はそっと押してみた。すると同時に、ドアの開く音がした。
「あれ?」玄関のドアはそのままだった。
少しして空き缶の音とともに、誠司の母が家の横からやってきた。八郎太は挨拶をしながら手伝おうとかけよると、まだ勝手口に残っているペットボトルの袋を示された。八郎太がならってゴミ出しから戻ると、誠司の母は外水道で手を洗い終えたところだった。「ありがとう、よろしくね」、そういって新しいハンカチをくれた。
埼玉県勢が奮闘する甲子園の高校野球を観ながら、猛暑日の今日も続く工事の音がBGMとして流れる。高校野球の一試合目が終わると、八郎太は両手を机について立ち上がった。階段を上がり、登りきる前のところで寝そべって、誠司の部屋に向かって声をかけた。
「誠司、俺が予言しよう。お前は五日目以降に部屋をでる。自ら一階まで降りてくるだろう。それがお前の敗北の瞬間だ」
大声でそう断言し、八郎太は階段を下りた。そして昼には美味しい精進料理を頂いた。午後も暢気に高校野球を観ていると、一時をまわったころ二階の部屋から人が階段を下りてくる音が聞こえた。
キッチンのドアが開くと、誠司が何事もないかのようにテーブルについた。目鼻立ちは整っているが、色白で生気がない。
「よ!」
リビングのソファに寝転がりながら、八郎太は手を上げる。そんな彼を、誠司は横目ですら見ない。八郎太は構わずに、声を上げながら誠司の向かいに腰かけた。
「いやいや、久しぶりやん誠司ちゃん。面影はあるっちゃーあるけど、まーこれでもかっちゅーくらいの引き籠もり面やなー」
覗き込む八郎太など存在しないかのように、食器のラップをとりながら誠司は黙々と食事の用意を進める。
「なるほど、僕はただ食事をしにきただけですって感じか」
笑顔でいう八郎太に目もくれず、誠司は塩豆腐に箸をつける。
「んな気張ったって、俺の予言通りだったろーに」
その瞬間、誠司が顔を上げて八郎太を直視した。「は?」と声には出していないのに、そう聞こえるほどムキな顔をして。そしてすぐに、八郎太など存在しないという自分の前提に立ち戻り、食事にだけ目を移す。でもその表情には、一瞬でも八郎太の言動に反応してしまった気恥ずかしさが、僅かな血流の変化となって表れている。
「俺の予言を誠司は、何も食べなければ五日目以降にギブアップするだろう、という意味にとった。そこで天邪鬼のお前は、自分の家なんだから普通に食事しにきただけですってな体で下りてきた。そうすれば俺の予言通りにならなくて済むと思ったんだろう」
誠司は誰も喋っていないかのように、食事を続ける。
「そーゆーとこ全然変わってないんだよ。人のいう通りになりたくないってとこな。そのお盆、ちょっと上げてみ」
誠司は意に介さず、トレイにのったままの食器に箸がゆく。仕方なく八郎太は身を乗りだし、両手でトレイを持ち上げた。そこで露になった机に紙が貼られていて「俺の予言。誠司は二、三日のうちに絶対に降りてくる」と書かれていた。
誠司はまた、思わず八郎太を見た。でも今度は明らかに動揺の色がある。誠司はすぐに考え直して、微かに鼻で笑った。
「これって、明日降りて来なければ紙を書き換えるだけだよね」
誠司の初めて発した言葉は、彼自身思いもよらないほど自然に出てきた。八郎太はにんまりとし、はじめまして! といった感じで、誠司を覗き込んだ。
「よっ!」
誠司は余りにも分かりやすく、頬を赤らめた。
「誠司は色白だから、血流がスケルトンだ。でもな、この机の予言の紙、もうSNSに上げてあるからさ」
「ねぇ、人の家の勝手に上げないでよ」
「気にすんな、お前のケツの穴が写ってるわけじゃないし。それより俺の話を聞け。君に素晴らしいポストを用意して招聘しようと考えている」
怪しいセールスオーラを放つ八郎太をよそに、誠司は食事へと復帰する。
「発表するぞ。なんと俺は、世界一周への挑戦を計画している。でもただ世界一周するだけじゃつまらないだろ。そこでだ。行った先の各国各都市で、観光スポットはもちろん街にすら一歩も出ないという、世界一周引き籠もりの旅! を企画。そのプロジェクトのエグゼクティブアドバイザーとして、誠司を招聘したいんだ。おれ周辺で引き籠もりに勤しんでいるのは、お前しかいない。頼むっ」
ついた両手のまま勢いよく頭を下げ、額を机に擦り付けた。箸をつつく誠司は、視線だけ向ける。八郎太は椅子に座ったまま、土下座をしているつもりのようだった。
なんとも処理しようのない時間が僅かに流れた。ゆっくりと八郎太が顔を上げると、いやらしい笑面が現れた。
「なわけねーだろ」
八郎太が顔を上げる前に目を逸らした誠司の、視線が泳いだ。
「俺は起業したい。その計画に、誠司を巻き込もうって魂胆だ。いくつかのビジネスプランがある。お前の両親には、ネットとかみて考えたプランの一つを話した。でも正直どれが当たるのか分からない。本当のこというと、俺大学中退したから、何か一発当てないと格好つかないんだよ。このまま親父の会社入るのも何か違うだろ。俺はさ、自分の才能を分かってる。それは人の才能を見抜くこと、そして人を集めること。これはまぢで俺の才能。高校の文化祭とか、すげー盛り上がったんだよ。あれはヤバかった。他にも、いくつもあるよ。自分の得意なところは自覚してる。その俺が、お前に目をつけた。誠司は科学博士だった。算数も超出来たし。何よりいいと思うのが、人のこと関係なく自分のしたい事やってたよな、昔から」
ちょっと見ろ、といって八郎太は計画工程表を広げた。大きな紙を縦割りに、三つのビジネスプランが時系列に沿って書かれている。その一つずつ、八郎太は説明を始めた。吸い物を啜りながら、時折、誠司は工程表に視線を落とした。それらは詳細で、具体的だった。三つ目のプランを説明しているとき、唐突に誠司が口を開いた。
「母さんと何はなしたの?」
「え?」
八郎太は顔を上げた。
「いや、母さんが笑ってたから何話してたのかなと思って」
誠司がいっているのは昨日の夜の、八郎太と母との雑談のことだと気づいた。
「そうだな」といって、八郎太はどことなく目線を移した。真剣に思い起こしている。その様子を、誠司は見ている。
「若手のお笑いと大御所女優のお忍び登山とか、その手のお前知らねーか。九合目は越えたけど、一線は越えてませんってやつ。あとは、ジャニーズのドラマの話とか。お母さんの好きなジャニーズの知ってるだろ。最近のセンターの横で踊る専門の髪の長いやつ、何ていったっけ。あれがやってるドラマの話とか」
「え、母さんがジャニーズ好きなの?」
「なんだよ、そこ知らなかったのか。あれはかなり好きでしょ、名前でてこないけど。盛り上がったよ、ドラマ話で。俺、一緒にでてる女優好きだから。あとは水泳の時間に、誠司が頑として水着に着替えなかった日のことな。あの理由がくだらなくてさ」
「いわなくていいよ」
そとからは子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。誠司は、そっと箸の手をとめた。
「母さん嫌がってなかったかい。家のなか汚いから」
「ああ、そういえば同じようなこといってたな。でもどこが汚いのか本当分からなくて。すごく片付いてんじゃん。俺の家なんか比べものにならないほど散らかってるからさ」
誠司の口元が、少し和らいだように見えた。箸を置くと、トレイを手に立ち上がる。そして誠司は食器を洗い始めた。水の流れる音と、子どもたちの声だけがした。八郎太は頬杖をついて、何を考えるでもなく寛いでいる。