モエとタっくん「オクターブの世界」
始まりの日
夏休み最後の日ですよ、パパが驚いた顔してコップを手に持って。
「ママがコップの中に吸い込まれちゃった!」って。
そりゃタっくんはびっくり仰天。いまにもパチンって泣きだしちゃいそうなシワくちゃの顔して、コップの中をのぞき込んで。
それがパパの優しいウソだと分かったので、私は一緒に驚いたふりをしました。タっくんはまだ三年生だから、本当のことをいうのは可哀想だよね。私はもう四年生だし、『モエちゃんは大人びた子だね』なんてよくいわれるくらいなので大丈夫。現実はしっかり受け止めている。
要するに、パパとママは性格のさんどいっちで……あれ?、とにかく性格が合わないってことで、二人は『りこん』したのだ。
よくパパとママはケンカしてたから。でも、しかたないよね。とにかく私は大人びた子なんだし。パパは知らないだろうけど、『なにかあったら電話しなさい』って、ママから携帯電話の番号を書いた紙、もらってあるんだ。
冬にはこたつになる長机にパパはあぐらをかいて、タっくんは身をのりだし、コップの中をのぞき込んでいる。パパが、んん~とうなって腕ぐみをした。
私はお芝居になんてつき合っていられない。だってもうお腹すいてるのに、夕ご飯の支度をしているはずの、ママの姿がないから。私にママの代わりができるのかな。これが現実か。きゅうに悲しくなった。イヤだね、『りこん』って。ほんとイヤだ。
「ねえパパ! ママにあやまって、もどってきてもらってよ」
もじゃもじゃの髪を指でかいて、パパはひげ面の顔をしかめた。
「あやまるくらいで、もどってきてくれるのなら、お安い御用だけど。ママー、ごめん。おれが悪かった。だから、もどってきておくれー」
パパは両手をあてて、大きな声をコップにかけた。
ちょっとパパ、何してるの、この男は……。
「ママー、聞こえた? 帰ってきてよー」
タっくんの口から、消え入りそうな声がもれた。こんがり日焼けした顔は、見たこともないほどおびえている。
あーもー、分かったよ。私が今日から、お母さん。
ママの引き出しから、エプロンを見つけた。首に通し、腰の後ろでひもを結んでみる。シャキーン。なんだか、自信がわいてきたぞ。
大好きな少女マンガの、悲劇のヒロインみたい。あちらは、お母さまが亡くなられたのだけれど、まあ似たようなもんでしょ。
私はびっくりするくらいの、大きな声をだした。
「パパ、汚い作業服着てないで、さっさとお風呂に入ってきて!」
うわーママみたい。調子でてきたぞ。
でもパパは上の空。
「このままだと蒸発して、コップの中の水が無くなってしまうな」
そういってラップを取りにきたパパを、私はにらんだ。奥さんが突然、姿を消すことを『蒸発する』っていうのくらい知ってるし。
少し水の残ったコップに、パパが真剣な顔してラップをかけようとすると、タっくんがきゅうに泣きだした。
「ママが息できなくて、死んじゃうよー」
「でもこのままだと、ママが本当に消えちゃうかもしれないんだ」
私は冷蔵庫を開けて、ニンジンを手に取ってみる。これで何か料理ができるかなと考えていると、『包丁は絶対さわっちゃダメよ!』。ママの言葉を思いだした。別のところから肉を取りだすと、『コンロの火はつけちゃだめ。せんをひねるとガスがもれて、爆発して家がふっ飛んじゃうからね』。ママがいってたな。それ聞いたとき、すごく怖かった。
タっくんが泣いてるのに、パパはまだいいはっていて。
あーもーうるさい!
「タクミは宿題終わらせて! パパも早くお風呂に入ってきてよ!」
カウンターから背伸びして、二人に怒鳴った。
「モエちゃんがこわいよー」
タクミが大泣きするのを耳の遠くに聞きながら、体から力が抜けて、私はしゃがみ込んでしまった。
なにひとつ、なにひとつ、できない。
その夜、パパがカレーを作ってくれた。
いつもママに小言をいわれつづけても、なーんにも気にしないで寝っころがってるだけなのに。やればできるじゃん、パパ。
カレーは美味しかったけど、パパは笑ってくれたけど、重たい気持ちだった。ママがいないって、こういうことか。
並べてしいた布団で、パパの腕をつかみながら静かに泣いていたタっくんは、いつのまにか寝いきをたてている。
明日から家に帰っても、真っ暗な気がした。なんだか怖くてこわくて、すがるような気持ちになって、私はコップを安全なタンスの上に、静かに置いた。