三日目
次の日の学校の、それは休み時間に起こった。
私はレイちゃんと『ゴジラと熊さん、ラブLOVE』ごっこをしていた。レイちゃんが「ゴジラと♪」といって私を見つめて指さし、私が「熊さん♪」とレイちゃんを横目で見て指さし、二人そろって「ラブ、ラブ~♪」と両手で胸をドッキンドッキンさせたり、足をヒザから激しく上げたりしながら踊る、二人の仲直りダンスごっこ。
これを、最高の笑顔で踊りつづけるんです。
ゴジラと♪、熊さん♪、ラブ、ラブ~♪、ゴジラと♪、熊さん♪、ラブ、ラブ♪、ゴジラと♪、熊さん♪、ラブLOVE♪ドッキンドッキン、ゴジラと♪、熊さん♪、ラブ、ラブ~♪
二人はいつもこんな感じなので、クラスの友達は気にもしていません。
そんなところへ運悪く、ノブオくんが歩いてきた。
「はーい、ノブオくん。ゴジラと♪」
レイちゃんは最高の笑顔でノブオくんを指さした。
ノブオくんは下を向いたまま、通りすぎていく。
「はーい、こっち向いてー。熊さん♪、でしょ。ノリ悪いね~」
レイちゃんは、おかまいなしにつづけた。
「今日もゴジラの靴下だね~。ノブオくん、何足持ってるのかなー」
レイちゃんはノブオくんに、エアーマイクを向けた。
「これはプレゼントで……、お父さんに買っ……」
ノブオくんは顔をくしゃくしゃにして目をつむった。
「お父さ……、お父さんが……、家出しちゃっ……」
つむった目のはしから、まん丸い涙がひとつ落ちた。
「え、どーいうこと?」
ノブオくんには聞こえていなかった。もうケイレンしたように、体をふるわせながら泣いていた。
少ししてノブオくんが落ちついてから、私はもう一度、やさしい声で聞いてみた。
「昨日……、僕が学校に行って、お母さんはパートに出かけたあと、お父さんは仕事に行くまで家にいたんだけど。帰ってくる時間になっても戻らないから、お母さんが会社に電話をしたら、今日は仕事に来ていないって。そのまま、お父さんが帰ってこないんだ……」
ノブオくんの様子をみれば、冗談だなんて思えない。
エアーマイクの手を、レイちゃんは気まずそうに下ろした。
なんでママは帰ってきてないの。もう三日目だよ。
家に着いてすぐリモコンのスイッチをいれ、部屋の真ん中に『大』の字になって寝ころんだ。なーんにもない黙ったままの部屋が、あるときには時計の針が動く音や機械の低いうなり声で、うるさいほどになる。
どれくらい時間がたったのか、部屋が涼しくなっていて、調子よくエアコンが動いてるのに気づいた。
私はママがいなくなったことを、クラスの誰にもいえなかったのに、ノブオくんて正直な人だな。みんなの前で泣けるノブオくんが、少しうらやましかった。
そこへタっくんが帰ってきた。いそがしそうに部屋の奥へいくと、すぐに新幹線メガネを磨きはじめた。真剣に手をうごかす、ちいさな背中がゆれている。
あまえんぼうのタっくんは自分を変えてまで、ママがいなくなった出来事に向かい合っていた。私は自分のなかの不安な気持ちから、逃げてばかりいるのに。
磨いていたタっくんは思いついたように立ち上がり、タンスに向かった。
「お母さ……」
タっくんが言葉につまって、私も気づいた。
あ! コップの中の水が、ない。
タっくんは慌ててコップを手にとった。光にあて、目の前でコップをのぞくと、ほんの少しだけ水が残っている。
きょうは暑かったから、パパのいったとおり蒸発してしまったんだ。
タっくんは誕生日プレゼントにもらった、顕微鏡の箱を出してきた。その中から、実験に使うスライドガラスを取り出した。
スライドガラスに残った水をうつそうと、タっくんはコップをかたむける。でも内側をつたう水が少なくて、コップの口のところで止まってしまった。しかたなく口をスライドガラスにつけるようにして水滴をうつす。たった一滴にも足らない水玉がスライドガラスにのり、その上に薄いカバーガラスをかぶせることができた。
「これで大丈夫」
タっくんは、ふーっと息をはいた。
「タっくん、本当にママがこの中にいると思ってるの?」
「います。これで見れば分かります」
新幹線メガネをかけたタっくんは、スライドガラスの水を観察し始めた。んん~っと唸って集中すると、レンズがにょろにょろと伸びていく。
そこに、お父さんが帰ってきた。
「パパお帰り、早かったね」
「ただいま」といいながら、パパはずかずか歩いて、水滴が入っていたコップを手に持った。
「パパは決めたぞ。お坊さんに、コップをお払いしてもらうんだ」
パパはいいながら、コップの中に気づいた。
「うわ、水が無いじゃないか。大変だ!」
今度はどたばた歩いて、台風みたいに家を出て行ってしまった。
スライドガラスの水を観察していたタっくんは、新幹線メガネをはずして、声をあげた。
「ダメだ、これ以上、電子に近づけない!」
タっくんに新幹線メガネを借りて、私も水を見てみた。
水の世界は、ファミレスで見た紙ナプキンや塩の世界とは、全然ちがっていた。
それは、ひかり輝く森の中に、忍び込んでいくようだった。もっと小さな世界に入っていくには、集中しないといけない。私は『もっともっと見たい。小さな世界を』と念じて、目の前の光景に集中した。
すると光が無くなっていって、真っ暗になってゆく。そして宇宙を飛んでるみたいに、闇のなかに沢山の星が光っていた。
「すごい、きれい」
集中するほどスピードが上がって、星々が私の後ろに流れていった。
そしてあるところで、急にブレーキがかかって止まってしまった。
そこには太陽のように輝く、まぶしくて大きな星があった。そして太陽の周りをまわる水星や金星、火星、木星、土星や天王星、海王星のように、小さな星がある。図鑑で見る、太陽系にそっくり。
そのなかで青く光る小さな星に、私は目を奪われた。
「地球に、そっくり」
真っ暗闇の世界でたった一つ、生きる力がみなぎっている星。
「お姉さんが見ているのは、酸素原子です。太陽にみえる大きな星が、原子核といいます。そして原子核の周りをまわる小さな星が、電子です。地球に似た星も、電子の一つです。そして電子とはこの世界でもっとも小さな粒で、僕たちの住む世界はすべて、その粒たちが集まって出来ているのです。きっと電子の地球に、お母さんがいるはずなんです」
「このなかに、ママが……」
全体からみると、地球に似た星は、とても小さかった。
「その地球に、もっともっと近づいて、なかの世界を見たいんだけど。もう、メガネの能力の限界です」
天才モードのタっくんが、くじけそうだった。
パパはコップのお払いから帰ると、「もう大丈夫」といってコップをタンスの上に置き、そのまえにお札を貼った。ひと仕事終えて満足げにぐうたらしていたパパは、テレビをつけたままうとうと寝ちゃいそう。
そんなパパをほおづえついて見ていたら、ぺこぺこだった私のお腹が音をたてた。その音といっしょにパパが起き上がったから、おかしくて笑っちゃった。よだれをふきながら、パパはシチューを作りはじめました。ちょっとコゲた味がしたけど、おいしかった。
その夜も、ママは帰ってこなかった。どうして? 電話では、今日までに帰るっていってたのに。なんで帰ってこないの、ママ。
部屋にお布団をしいて、パパが真ん中になって寝た。新幹線メガネで見た電子の地球に、ほんとうにママがいるのかな。もし、あの星にいたとしても、帰れないんじゃないかと思った。だってこの世界で、一番小さな粒だもの。どうやって、そこから抜け出せばいいのだろう。
タっくんは、新幹線メガネをかけたまま寝ている。へんなの。パパがいびきをかき始めたから、私はあっちを向いて目をつむった。
その夜、不思議な夢をみた。
私は地球の上に立っていた。宇宙の果てしない広がりを感じながら、青白く光る、大きな地球に立っていた。
上を見ると、階段のように鍵盤がつづいていた。それはただ見ているのもイヤなほど、なにかが怖い。地球を越えて、上の鍵盤に行ってはいけない、そう感じた。自分の世界ではないと思った。
下を見ると、同じように階段の鍵盤がつづいている。私は大きな地球をけって、下の鍵盤にジャンプした。着地すると、とても安心する「シ」の音色が鳴った。私の世界の音だった。そのまま鍵盤を一つひとつジャンプして、階段を下りていく。「ラ、ソ、ファ、ミ、レ」と、心地いい音がした。「レ」の鍵盤をけって下に降りると、そこは鍵盤でなく、世界で一番小さな電子の地球だった。
小さな電子の地球に降り立つと、「ド」の音がした。
そこから下を見ると、また鍵盤がつづいている。でもそこから下へは行っちゃダメだと感じた。ここから下は、私の世界じゃない。
もしかしてママは、この下の鍵盤へ足をふみはずして、落ちていってしまったのだろうか。そう思って、もう一度下をのぞくと、恐ろしくて体が震えた。下の鍵盤に落ちたら、もう助からない。
「ママ!」
叫ぶのといっしょに、私は起き上がった。怖くて汗をかいていた。
深く息をすいながら、まわりを見た。パパは寝ているけど、タっくんは少しうなされているようだった。
「ママ…、ママ……」
いつものタっくんみたいに、ママを呼んでいる。新幹線メガネをかけた頭を、右に左にゆすっている。
その時、タっくんのお腹のあたりから、まぶしく光るヒモみたいなものが出てきた。それは強烈に光っているのに、部屋の壁やパパの顔や、どこも照らしていなかった。光るヒモは伸びていって、新幹線メガネのまわりを渦巻きはじめた。光る渦巻きに伸ばされて、レンズも渦巻いていった。右のレンズと左のレンズが引っぱられ、ねじれてゆく。
その夢みたいな光景は、一瞬まばたきをすると、消えた。
「あれ……?」
やっぱり夢だったのかな。そう思って新幹線メガネを見ると、二つのレンズは渦を巻いて、ねじれている。
「チョコとバニラの、ソフトクリームみたい」
レンズの先が細くなっていたので、どこかに刺さったら痛そうだった。私はそっと新幹線メガネをはずすと、タっくんの布団の横に置いて眠りについた。