お父さんは、あれから走ろうといってこなかった。なにもなかったみたいにして、僕に話しかけた。
金曜日は、運動会のあとはじめての空手の日だ。僕はもう、空手の教室に行きたくない。弱くて運動の苦手な僕を、なんとかしようと思って空手教室に通わせたんだろうなってのは分かってる。でも形はふらふらするし、いつまでたっても上手くならない。後からはじめた貴広は、あっというまに僕を抜かして上達していった。
お母さんが両手にいっぱいの買い物袋をかかえて帰ってきた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃたね。空手、間に合うかな」
「……いかないよ」
僕は、お母さんを見なかった。「えっ」っていうのが聞こえた。
「空手には、もういきたくない」
「どうして、もったいないじゃん。長く続けたのに……」
「ぜんぜん強くなれない。いやな事をやりたくないんじゃないよ、靴洗いとか家の仕事してるでしょ。空手はむいてないんだよ」
お母さんは僕から目をはなして、ため息をついた。
「そっか。お父さん、悲しむね」
お父さんのためはもういいよ!、僕がそういいかけたとき、お父さんのがっかりした顔が浮んだ。たったいま僕が見ているように、目の前に思い浮んだ。
黙って部屋にいき、僕は閉じこもって絵を描いた。
こんな僕にも、サンタさんはやって来た。お正月にはお年玉ももらえて、欲しかった鉄道模型のE657系スーパーひたち六両セットと、レイアウトの未完成部分だった建物や木を買った。
一月の終わりころ、笹岡先生がとてもうれしそうに話しだした。
「すごいニュースだよ。なんと貴広くんが地区の空手大会で優勝しました!」
教室がふくれ上がるようだった。僕はもう空手教室に行ってなかったし、ほかの誰も知らなくて、驚いたり喜んだりする声でいっぱいになった。あんまり表情の変わらない貴広の顔が、すごく赤くなってる。そして、笑った。
先生が「おめでとう」といって手をたたくと、みんなも先生にならって「おめでとー」といったり、拍手したりした。
それから大雪の降った日も過ぎて、二月になった。
お父さんとお母さんが、深刻な顔して話し合ってるのに気づいた。そういえば秋の運動会が終わったころから、時々あんな表情で話し合ってることがあった。僕にないしょで、なに話してるんだろう。弱い子供をきたえ直すところを考えているんだろうな、きっと。
ある日、僕は大きな紙をみつけた。たくさんの折りたたまれたダンボールやなんかを家で見つけたなかに、白い大きな紙があった。何枚もあったので、僕はだまって一枚をぬきとった。
自分の部屋の、床いっぱいに紙を広げる。いつも絵を描く紙が、縦にも横にも五枚くらい並ぶ大きさだ。
その白くて大きな紙を見ていると、E657系スーパーひたちが紙の真ん中から走ってくる姿が見えた。特急や蒸気機関車のイメージもわいてくる。でも電車の絵はいつも描いてるからなとも思う。そのまま、じっと紙を見ていると、みんなの顔が浮んできた。クラスみんなの、一人ひとりの顔が見えてくる。
そうだ! と思いついて、僕は大きな紙に描きはじめた。
大樹や悠太や、アヤコやミッチー。それに貴広や、みんなを描いた。まんなかに笹岡先生を描いて、それに僕も描いた。それは運動会に優勝したときの絵だった。
何日もかかって、一人ひとりの顔や体操着や体の線を引いた。後ろにはウサギ小屋と桜の木、それに校舎もある。毎日、学校から帰ってくると、すぐに部屋へいって描いていった。絵にむかっていると、本当に運動会で優勝したんだ!って、その喜びがわいてきた。笹岡先生が、みんなが、笑っていた。