二日目
えーと、中途半端なかんじで寝てしまったな。
「ちょっと、タっくん。あなた夕ご飯、また食べなかったの?」
起きてきたタっくんは、お目めスッキリ。
「いいえ。お父さんに、けんちん汁を温めてもらいました」
「そうでしたか。えー、なにかよそよそしくありませんか?」
「いいえ、普通ですが。お姉さんも、同じような感じですよ」
「いや、私は、ついつい口調を合わせてしまう人ですから」
あー、なんかやりずらいな。
タっくんはすぐ机に向かって、なにやら描きはじめた。画用紙に定規を使って、真剣に手をすべらせている。
「タっくん、なに描いてるの?」
「これは設計図です」
画用紙にはメガネみたいなものがきれいな線で描かれ、レンズのところには山のように飛び出た線が引かれている。そしてタっくんはまわりに、細かな説明を書きこんでいた。
「パパは、もう仕事にいくよ。ここに朝ごはんを作ってあるから。二人で食べられるね」、パパがキッチンから声をかけた。
私は返事をしながら、玄関までパパを見送りにいった。
「じゃあモエ、戸締り頼むね」
「うん、分かった。パパ、いってらっしゃい」
電気工事の危険な仕事だから『無事に帰ってきてください』って、心の中でお願いするんだって、ママがいってた。だから私は『絶対ぜったい、無事に帰ってきてください』ってお願いして、手をふった。
元気よく出ていったパパの、小さなうしろ姿。力ない歩きかた。
姿勢よく食べるタっくんのまえで、私はハシにのったご飯をぼんやりと見た。パパの炊いたご飯と、あの力ないうしろ姿が重なって見える。それでもしっかり、湯気がたっていた。
タっくんは朝ごはんを食べ終わると、タンスのまえに立って見上げた。
「お母さん、絶対に僕が助けます。待ていて下さい!」
タくんは置かれたコップに向かい、きっぱりとした口調でいった。
うわー、もーパパのせいだぞー。
飼育係の当番だった私は、教室のメダカと校庭のウサギの世話をして、帰りが遅くなってしまった。タっくんが一人で寂しがってるかなって心配だったけど、また今日も帰っていなかった。
ピアノをひいてみたけど、今日はなんだか気分がのらない。マンガを読んでみても入り込めずに、ため息をついて本を閉じた。
「あー、つまんないっ」
なんとなくピアノに向かっって、『ド』の鍵盤をはじいた。そして順に『ドレミファソラシド』とひいたあと、あれ、と気づいた。
『ドレミファソラシド』を、『一オクターブ』というのだと教わった。もう一オクターブ上の『ドレミファソラシド』とは、同じ『ド』でつながってるってことになる。
「そっかー」
すごい発見をした気になったけど、よく考えたら大したことないか。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、と一つずつひいて、ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ド、と折り返してみた。そうやって三オクターブの間を、鍵盤の階段みたいに、上ったり下りたりした。こうしていると、頭の中のもやもやが晴れてゆくみたいに、真っ白になっていった。
少しするとタっくんが帰ってきて、町の図書館で借りてきたという大きな袋から、一冊を手にとって読みだした。床に広がった本には、『微視的世界への探求』、『電子顕微鏡で見た世界』、『原子と素粒子』などなど、意味の分からん難しい本ばかり。
今日はパパの帰りが遅いから、夕ご飯を作っておきたいのに、なにをやろうとしてもママに禁止されたことばかり。
イヤになってテレビをつけると、本を読んでいるタっくんが、ポケットから大切そうに、布に包まれたものを取りだすのが見えた。それは変なかたちのメガネで、レンズが新幹線のお鼻みたいに飛び出している。そのレンズを、きれいな布でふきはじめた。
「タっくん、なに、そのメガネ」
タっくんは気づかずに本を読んでいるので、私はもう一度聞いた。
「これは、一番小さな世界を見るためのメガネです」
「ふーん」
テレビのチャンネルを変えていると、パパがやっと帰ってきた。
「パパ、遅いよ!」
私は「お帰り」も言わずにいった。
「ごめんごめん、仕事が長引いちゃってな」
「お外に食べいこーよ」
「そうだな、そうするか」
「やったー」
私たち三人は散歩気分で、夜の町を歩いた。タっくんが難しい本を持ってこなかったので安心したけど、代わりに新幹線メガネをかけていた。そしてきょろきょろ、まわりを見回しながら歩いている。
十分くらい行くと、『どしらそ』が見えてきた。そうそう、みなさんご存知のCM、『どしらそファミレス~♪』ってメロディでお馴染みの、ファミリーレストランです。ここ、家族でよく来るんだ。
きらきらの店内に、ちょっとテンション上がってるモエでーす。明日は三日目だからママが帰ってくるはずだし、三人の夜は今日が最後ね。よく家族を守り通したわ、モエ。えらい、えらい。って、誰もいってくれないから自分でやってるけど。
私は大好きな『どしらそハンバーグプレート』を頼んで、タっくんはエビドリア、パパはビールと唐揚げと枝豆を頼んだ。
パパがタっくんを不思議そうに見ているので、新幹線メガネのことを説明してあげた。まあ、私もよく理解していないのだけれど。
タっくんはテーブルにある物を、片っ端から観察している。
「タっくん。パパに貸してくれる?」
「どうぞ。レンズを傷つけないようにして下さい」
ありがとうといって、パパは新幹線メガネをかけた。そのとたんに「うわー」とか「すげー」とか、子供みたいな声を上げた。
「もしもし、そこの成人男性。お店のなかなんですけどー」
私がいっても聞こえてないのか、パパはメガネで観察をつづけている。
「ねーパパ、こんど私の番!」
楽しそうにはしゃいでいたパパは、しぶしぶメガネをくれた。
さっそく新幹線メガネをかけてみると、頭がくらくらして、よく見えない。横からタっくんが、紙ナプキンを手渡してくれた。私はそれをメガネで見てみる。すると紙ナプキンを見ているはずなのに、目の前にはごわごわとしたヒモみたいなものが、びっしりと重なって、はるか彼方まで平らに連なっている。一度も見たことのない、はじめて見る世界。
「えー、すごーい。なにこれ」
紙ナプキンを抜きとったタっくんは、代わりに調味料のなかから塩を、私の手にふりかけた。
ぐっと新幹線メガネをよせて、観察してみる。
四角くい固まりが散らばっている。これが塩なんだ、かわいいな。その下には荒れた山あり谷ありの大地が広がってるけど、これ私の手? うわ、ショック。
「集中すると、もっと小さな世界が見えてきます」
タっくんの言葉にしたがって、四角い固まりに集中した。もっと見たいと思えば思うほど、スピードを上げて走るみたいに景色が過ぎ去って、四角い固まりの中に突入していった。
「すごい、レンズが伸びていくぞ」
パパの声が聞こえた。塩の中はキラキラした氷の宮殿のようで、何もかもがキレイに整列している。
もっと集中すると、まわりが真っ暗になっていった。氷の宮殿に見えたものは、じつは大きな粒と小さな粒が順番に並んで出来ていたのだ。縦にも横にも、すき間なく結び合っている。まるで宇宙をゆらゆら浮いているみたいな気分。
「右のレンズが見るためのもので、左のレンズは時間を合わせるためのものです。小さな世界に行けばいくほど、時間が早く進んでしまうので。左のレンズで、僕たちの時間に調整しています」
タっくんがいうのを聞いて、パパが驚いたような声をだした。
「タっくんが天才モードに入ってるぞ。いやービックリした。なんでって、おじいちゃんも天才モードに入っちゃう人だったのさ」
「え、どーいうこと?」
私は興味しんしんで聞いた。
「おじいちゃんも昔、台風で倒れてしまった全滅の稲を生き返らせたり、病気が広がったリンゴ畑を治す薬を作りだしたり。突然キリっとして、天才に変わっちゃうんだよ」
「えー、あのおじいちゃんが」
いつの間にかタっくんに、新幹線メガネをはずされていた。
「パパは、天才モードなかったんだけどさ……」
しょぼんとしたパパは、最初にはこばれてきたビールを、ごくりごくりと飲んだ。私はじっと、生き物みたいに動くパパのノド仏を見ていた。
「ママはさ、毎日まいにち細かい事ばかりいってたろ。だから、そういう人たちのいる世界に行ってしまったんだと思うんだ」
「なにいってるのパパ。ママは今日か明日には帰ってくるよ」
「帰ってこれないさ、あんな風に消えてしまったら……」
パパは頭をかかえて、小さく震えた。
「パパに文句をいいながらママの顔は真っ赤になっていったんだ。すると足とか腰がするする細くなって、コップの中に消えていって。最後には驚いたママの顔と手が、音もなく吸い込まれてしまったんだよ」
タっくんは新幹線メガネをはずして、パパの話を聞いていた。
「一瞬のことで、助けられなかった。パパがぐうたらで、何もしないからバチが当たったのか。そうなら直すさ、いますぐに」
「パパはママがいなくなってから、ぐうたらじゃないよ」
そのあと私たちは、お腹いっぱい食べて店をでた。
ありがとう『どしらそ』、また来るよ!
三人で夜の帰り道を歩いてゆくと、やがて家のアパートが見えてきた。
私は期待していた。
ママが帰ってきていて、部屋の明かりがついていればいいなって、少しだけ期待していた。でも窓は、真っ黒だった。